治療薬のない領域に挑む――創薬の力で「聞こえる未来」へ

加藤さん写真

高齢化が進むいま、世界で15億人以上が抱えるとされる「難聴」。自覚しづらく見過ごされがちな一方で、認知症や社会的孤立のリスクとの関連が指摘されるなど、社会的に見過ごせない課題になりつつあります。しかし、有効な治療薬はいまだ存在していません。塩野義製薬はこの課題に創薬力で挑むべく、Cilcare社(フランス)との共同研究を開始しました。

今回ご紹介するのは、難聴という新たな領域への挑戦と、「自分たちで治療薬を作りたい」という研究者たちの強い思い。塩野義製薬の新しい一歩をお届けします。

難聴という社会課題に、創薬で挑む

―加藤さんが取り組んでいる難聴とは、どのような疾患でしょうか。

加藤さん(以下、加藤): 世界では現在約15億人もの人が何らかの聴覚障害を抱えていると言われています(2019年)。また、高齢化や生活様式の変化により、2050年までには世界人口の4分の1が、何らかの聴覚障害を経験するという予測もされています。聴力は徐々に低下するため、聞こえにくさを自覚しづらく、発見が遅れがちです。 また眼鏡とは異なり、補聴器は調整が非常に難しく、数カ月かけてその人の状態に合わせていく必要があります。わずらわしさや装着の印象から、補聴器を使用しない方が多い傾向にあります。

―難聴の問題は、聞こえにくさだけですか?

加藤:難聴になると、単に聞こえにくくなるだけでなく、私たちの心身にさまざまなリスクが生じます。まず、聞こえづらくなると、他の方とのコミュニケーションが取りづらくなっていきます。その結果、社会的孤立の増加などを招き、社会全体にとっても大きな損失をもたらすのです。その損失額は年間約1兆ドルに達するとの報告もあるほどです。
さらに高齢者においては、難聴は認知症発症のリスク因子の一つとされています。難聴を改善することで認知症リスク低減につながる可能性も指摘されており、今後の研究が期待されています。
加藤さん写真

―それほど個人、そして社会全体に大きな影響があるのですね。高齢者が抱える聞こえづらさの原因と、難聴の治療法について教えてください。

加藤:実は、聴力は30-40歳代から加齢とともに少しずつ衰え始めるといわれています。非常に高い周波数の「モスキート音」は若者にしか聞こえない音として知られており、加齢による変化の一例です。さらに65歳を過ぎると聞こえにくさを感じる人が急激に増え、社会的な課題としても無視できない状況となっていきます。

有効な治療薬はいまだ存在せず、補聴器などの対症療法が中心です。いわゆる「アンメットメディカルニーズ」が極めて高い疾患の一つといえるでしょう。塩野義製薬では、「社会的影響度の高いQOL疾患」として、難聴創薬への挑戦を決意しました。

―塩野義製薬といえば感染症に強みを持つイメージです。聴覚領域への進出は大きなチャレンジだったのではないでしょうか?

加藤:確かに、塩野義製薬において難聴領域の創薬は今回初めてで、聴力の評価をどのようにすればよいか、ゼロからのスタートでした。そこで、聴覚科学に特化したバイオテクノロジー企業・Cilcare社との協業で新薬創出を目指すこととなりました。Cilcare社は難聴に関する高い非臨床研究技術と臨床ノウハウを有する世界有数のバイオテック企業です。

Cilcare社と目指す新薬創出

同じチームの小西さん(右)はCilcare社のラボを見学し、現地で手技を学んできました。「見るもの全てが新しい発見の連続でした」(小西さん)
加藤さんと小西さん

―Cilcare社との協業で、どのような創薬を目指しているのですか?

加藤:一部の難聴では音の大きさは問題なく聞こえるのに、言葉や単語としてうまく伝わらないために、会話が成立しにくい症状がみられます。Cilcare社は、そういった特徴を持つ難聴の原因が、音を脳に伝達する神経経路の障害によるのではないかと推測して、聴覚神経の保護作用を持つ新しい治療薬候補「CIL001」を創出しました。

 

現在開発中のCIL001は聴覚神経を保護してシナプスの再結合を促進します。耳(鼓室)内に薬剤を直接注入することで、内耳にピンポイントで薬を届け、全身性の副作用を抑えられるのも特徴です。これまでの非臨床試験では、聴性脳幹反応(ABR)の改善やシナプス数の増加などの結果が得られています。

―内服とは異なる、ユニークな投薬法ですね。結果だけ聞くと順調そうですが、難聴領域における創薬の難しさを教えてください。

加藤:耳という感覚器官そのものを理解する難しさがあります。特に内耳は骨に囲まれた小さく、複雑な組織で、その構造を自分たちで理解するだけでも非常に時間がかかりました。また難聴は症状が目に見えず、評価指標も非常に繊細です。疾患モデルの構築など、自社だけで基盤を構築することの難しさを認識し、外部の知見を取り入れながら、ABRや内耳組織の解析といった専門性の高い技術を社内に導入しています。Cilcare社のラボを訪問して実際の研究現場で学び、技術を習得するなどで創薬に向けた体制が整いつつあります。

―現在開発中の化合物は「CIL001」の一つで、そちらのみに注力されているのですか?

加藤:実は塩野義製薬独自の創薬も実施しています。我々の強みはものづくり、「もっとよい化合物」を目指して取り組みを始めました。Cilcare社の難聴に関する豊富なノウハウと塩野義製薬の創薬力を生かして、塩野義製薬とCilcare社の複数部署のメンバーで議論を重ねながら、みなが同じビジョンを持って創薬に当たっています。

「聞こえにくさ」を抱える人は、すぐ近くに存在している

―そもそも、難聴に対する創薬はどのように始まったのでしょうか?

加藤:創薬はまず患者さんのニーズを探ることからスタートします。感染症に加えて塩野義製薬の強みを活かせる、かつ社会的ニーズが満たされていない分野として、難聴が選ばれました。
その選択の背景には、社内で立ち上がったコミュニケーションバリアフリープロジェクトの存在も大きく影響しています。ここからは立ち上げメンバーの野口さんにバトンタッチします。
野口万里子さんは先天性の聴覚障がいというハンディをものともせず、ドイツ留学を経て塩野義製薬へ入社。同僚に「きこえないのはわかっていたけど、会話ができると思っていた」と言われるほど。「聞こえる人、聞こえない人が共に社会生活をする」共存社会のために活動しています。
加藤さんと野口さんの写真

―では、ここからは野口さんにおうかがいします。野口さんが立ち上げられた「コミュニケーションバリアフリープロジェクト」とは、どのようなプロジェクトですか?

野口さん(以下、野口):「聞こえにくさ」に起因するコミュニケーションの障壁(バリア)を、より多くの方々に知っていただき、そのバリアを解消することを目的に立ち上げたプロジェクトです。例えば、聴覚障がいの症状は人それぞれ。まったく聞こえないわけではなく、高い音が聞こえにくい、全体がぼんやりとしか聞こえないなど、本当にさまざまです。
けれども、聴覚障がいの実態はほとんど知られておらず、「大きな声」で話しかけられがちです。私自身も先天性の聴覚障がいがあり、耳元でいきなり大きな声で話し掛けられびっくりしたことも(笑)。

―聴覚障がいがあっても聞こえる音もあり、必ずしも大きな声は必要ないのですね。初めて知りました。野口さんが経験された困りごとについて、詳しく教えていただけますか?

野口:普段は相手の口元を観察しつつ(読唇術)、ときには音声をリアルタイムで文字に変換するアプリも併用して業務に当たっています。けれども、例えばPCの操作説明を受けるときなどは困難を感じました。説明する方は画面だけを見て、「ここをクリックします」と言いながら操作をどんどん進めてしまいます。何をしているのか理解できず、その結果、まるで理解の飲み込みが遅い人のように周囲から思われてしまいます。

―なるほど、操作手順が分かれば問題なく進められるのに、コミュニケーション不足によって、まるで仕事ができないように思われてしまうのですね。

野口:はい、「聞こえにくさ」は、周囲から気づかれにくいために、配慮が行き届かないケースが多いのです。特に医療機関では、難聴患者が良質な医療を受けられない原因になりかねません。医療機関ではマスクを着用した医療従事者が多く、特にコミュニケーションが取りづらい場所だからです。実際に服用方法がきこえない患者さんへ正しく伝わっておらず、薬の効果が得にくいという事例もありました。
日本国内には聞こえない・聞こえにくい人が約2,000万人います。にもかかわらず、医療機関でのコミュニケーションバリアはまだ広く知られていません。何とかしなければ、と強く思いました。
出典:Japan Trak2015,2018から試算
出典:Japan Trak2015,2018から試算

―よい薬を作っても、正しく使われずに効果が発揮されない……。それは製薬企業としても早急にアクションが必要ですね。

野口:そこで、難聴の困りごとをわかりやすく伝えるためのマンガを制作し、医療系の大学などへ配布するクラウドファンディングを実施しました。制作したマンガは国内に留まらず、イギリスの全医学部で教材として紹介されるほど活用されています。

「聞こえにくさ」への理解が、創薬の原動力に

―プロジェクトを通じて“聞こえにくさ”の課題が身近に感じられ、その理解が創薬にもつながっていったのですね

加藤:現在、難聴に対しては薬による治療の選択肢がないだけでなく、診断の方針もまだ限られている状況です。「聞こえにくさ」を解消する薬剤を創出することができれば、医師の先生方と協力しながら診断・治療指針を検討し、患者さんに新しい選択肢をお届けできるかもしれません。

―最後に、今後の展望とメッセージをお願いいたします。

加藤:難聴は徐々に進行するため自覚しにくい疾患です。しかし、重症化する前に早期に治療へつなげることで、より良い結果につながる可能性があります。そのためにも、早期発見と早期治療の重要性を社会に発信し続けることが、私たちに課された使命だと感じています。

 

この治療薬が実用化されれば、世界中の難聴に悩む患者さんに希望を届けられるはずです。患者さんのQOL向上にも、大きく貢献できると信じています。ただ、薬の開発がゴールではありません。誰もが自分らしく、いきいきと暮らせる社会の実現こそが、私たちの目指す未来です。

 

新薬を世に送り出し、患者さんやご家族の「聞こえる未来」を創り、健やかで豊かな生活を送っていただけるよう、これからも誇りと情熱を持って未来の医療を創造し続けていきます。コミュニケーションバリアフリー活動と創薬の両輪で、社会の医療ニーズに応え続けたいと考えています。

チームメンバーの写真
塩野義製薬は「第25回夏季デフリンピック競技大会 東京2025」へ協賛しています。