「母親だから我慢は当然」を変えたくて ~周産期のストレスに寄り添う「こころサポートアプリ」開発プロジェクト~

茶谷さん

妊娠や出産を通して初めて経験した不安やストレス。「母親だから当然だよね」と片づけられてしまうことも多い、社会全体の価値観に違和感を覚えたことが、新しい挑戦へ踏み出す原点でした。その違和感を胸に、DX新規事業推進室の茶谷奈津美さんはDXの力で妊産婦と家族の心に寄り添うメンタルサポートサービスの開発に取り組んでいます。

 

私たちはSHIONOGI Group Visionのもと、創薬を基盤とした強みを生かしながら、医薬品だけにとどまらず、健康課題に寄り添うサービスを広げるHaaS企業への進化を進めています。今回ご紹介する「周産期のこころサポートアプリ」は、その中でも、薬だけでは支えきれない心の不調に向き合う新しい取り組みです。

※HaaS(Healthcare as a Service):ヘルスケアサービスとしての価値提供

 

私はもともと研究者として腫瘍免疫の薬理研究に携わり、細胞のふるまいや治療のメカニズムを一つずつ積み上げて理解する姿勢を大切にしてきました。「困っている人に、科学で何ができるか」 ——その軸は変わりません。妊娠・出産を経て見えた「薬では届きにくい心の揺れ」という課題に、研究者として培った視点とDXを掛け合わせることで挑んでいます。

「母親だから我慢は当然」を変えたくて 創薬研究の外へ踏み出した

茶谷さん

―茶谷さんが手がけるのは、どのようなプロジェクトですか?

茶谷さん(以下、茶谷):妊産婦とその家族が、心身の不調を抱え込まずに過ごせるよう支援するプロジェクトです。妊産婦の多くが感じる「つわりがきつい」「眠れない」「不安やイライラが続く」といった悩みに寄り添うアプリを開発しています。「セルフケアコラム」で心の健康を保つ重要性について学び、「セルフケアプログラム」で不調に早めに対応、「こころチェックで状態を早期に把握、見守る機能を備えています。これまで医薬品だけでは解決しきれなかった、日常生活に潜む悩みや不安。このアプリは、ユーザー自身が気づきにくい心身の変化を見える化、、そして周りの誰かに「ことばにしやすくする」ことで、お母さん達のよりよい毎日を支えることをめざしています。

 

―プロジェクトを立ち上げたきっかけは?

茶谷:第一子の妊娠・出産をきっかけに、それまでの生活が一変しました。私はつわりの症状がとても重く、「頑張れる環境もあるし、頑張りたい気持ちもあるのに、体が言うことをきかない」状況に陥ってしまいました。ドクターストップにより休職せざるを得なくなり、仕事も家事も何もできない自分の不甲斐なさや、赤ちゃんの成長への不安など、とても辛かったのを覚えています。出産したら落ち着くかと思いきや、夜泣きにより睡眠不足に悩まされる一方で、小さな我が子の命を自分が握っているという不安に押しつぶされそうになることも。世の中のお母さんはこんな大変な思いをして子どもを産み、育てているのだと知りました。

一方で、日本では妊娠や出産に伴う心身や環境の変化が、十分に理解されにくいまま「当たり前のこと」と受け取られてしまう場面もあります。自身の妊娠・出産を経験したことで、社会全体には、まだ声にしづらい負担が残っていることに気づきました。

 

妊娠中から産後のメンタル不調は、必ずしも診断名がつく状態ばかりではなく、未病ともいえる揺らぎが長く続くことも少なくありません。SHIONOGIがめざすHaaSでは、診断名がつく前の段階から、日常に寄り添う形で健康を支えていくアプローチも重要だと考えています。今回のプロジェクトも、その流れの中にある取り組みの一つです。

 

―妊産婦のどのような悩みに着目されましたか?

特に精神面に注目しました。妊娠中は体調の変化に目が行きがちですが、調査の結果、妊産婦の約85%がメンタル不調を自覚していることがわかりました。また、「人生で最もつらかった。今思えばうつだった」といった声も多く、見過ごせない課題ながら、医療機関を受診する妊産婦はわずか数%程度という報告もあります。

 

この問題は母親だけでなく、パートナーのメンタル不調、子どもの発達や情緒への影響、虐待の増加など、家族全体や次世代まで長期かつ広く及びます。社会全体で早期ケアの仕組みを整える必要があると感じました。

 

―研究職から新規事業の部署へ、迷いはありましたか?

茶谷:やはり迷いはありました。学生時代はiPS細胞を研究し、入社後は腫瘍免疫の薬理研究に携わり、研究者としてのキャリアを歩もうと考えていました。でも、妊産婦の辛さを当事者として経験し、しかも育休からの復帰と同時に社内では自律型研究制度がスタート。同じ課題感をもつ有志も多く集まりました。タイミングがピタリとそろい「妊娠・出産を経験したからこそできる。今、挑戦しなければ後悔する」と思ったんです。周囲からは「大丈夫?」と心配の声もいただきましたが、背中を押してくれた先輩やチームメンバーの応援、なにより、「医薬品以外のアプローチで人々を健康に」というDX新規事業推進室の方向性と自分の思いが一致していると納得できたので、私自身、勇気を持って踏み出せました。

※自律型研究制度:研究員を対象とした、「将来の患者のための新しいテーマ」を一人一人が自律しながら責任を持ち立案・研究する制度

日本初の挑戦 対人関係カウンセリング(IPC)をベースにしたアプリ開発

茶谷さん

―「対人関係療法(IPT)と対人関係カウンセリング(IPC)」とは?

茶谷:対人関係療法(IPT)は心理療法の一つで、対人関係の質に焦点を当て、対話を通じて感情の揺れに向き合います。特にIPTは周囲との関わり方を重視するため、周産期うつには特に効果が高いという報告もあります。IPTはうつ病の治療を目的とするものですが、IPTをベースに、うつ病の診断基準を満たさない軽いうつやストレスに対応するために作られた対人関係カウンセリング(IPC)があります。我々はうつになる前のセルフケアを重視していたことからIPCに着目しました。

 

ただ、IPCを提供できる専門家は非常に少なく、「今」必要な人には届きません。そこで私たちは、DXでその壁を越えたいと考えました。しかし、IPCは本来、対話の相手や、その時の対人関係の質に合わせて変化するカウンセリング技法であるため、テンプレート化が非常に難しく、IPCをベースとしたデジタル化アプリは世界的にも事例は数えるほどで、日本においては初の試みでした。

 

―アプリ開発は大きな挑戦なのですね。カウンセラーではなく、アプリと対話する利点について教えてください。

茶谷:IPCの考えに基づいて設計されたキャラクター「AIフレンド」との対話機能です。人には言いづらいことも、キャラクターなら安心して話せる方が多いのです。予約不要で、24時間いつでも利用できるのも利点です。AIフレンドは、話せば話すほど、ユーザーの背景や悩みに合わせて、ユーザーを励ましたり、少し前の相談内容を踏まえて「最近はどう?」と声をかけたりします。AIフレンドの外見は、人ではなく動物のような架空キャラクターとして、親しみやすさと適度な距離感を両立させています。また、近年、国立成育センターからも、母親と同程度に父親もメンタル不調になっていることが報告されていますが、父親向けの制度やサービスはほとんどない状況です。そこで、父親のメンタルもサポートできるよう、本アプリにはパートナー向けコンテンツも搭載しました。家族全体が少しでも穏やかに過ごせる助けになればと思っています。

 

―アプリを開発するうえで、最も難しかった点は?

茶谷:最も大変だったのは、熟練カウンセラーの頭の中にある「対話の組み立て」を、パターン化することです。 専門家へのヒアリングや模擬カウンセリングを繰り返し、最終的に約5,000の分岐を持つ会話シナリオ(対話アルゴリズム)を構築しました。作ったときは良いと思ったメッセージでも、実際に使ってみると「なんかイラッとする!」と気づくこともあり、一つ一つ丁寧に検証を進めました。センシティブな状態のユーザーを傷つけないように、使用する言葉づかいも専門家と慎重に選びました。

孤立をつくらない社会へ DXが生む新しい産後ケアの形

茶谷さん

―開発チームのメンバーや社内の協力についても教えてください。

茶谷:現在は子育て経験のある社員を中心に、男女合わせて6名ほどのメンバーで進めています。全員がアプリ開発もメンタルヘルス領域も初めてで、最初は有志活動からのスタートでした。「この機能は不要では?」「絶対に必要です!」などと、時には意見がぶつかり合うこともありましたが、それぞれ熱い思いを持ってプロジェクトを推進しています。塩野義製薬には新しい挑戦に前向きな社員が多く、そんな社風にとても助けられます。

 

―開発の進捗はいかがでしょうか?

茶谷:名古屋市立大学の専門家の先生方と連携し、実際の妊産婦さんに使用してもらう研究を行いました。約350名を対象にした研究が終了し、現在はデータ解析の最終段階に入っています。具体的な数値は公表前ですがご利用いただいたユーザーの方からも「このアプリのおかげでつらい時期を乗り越えられた」「自分の気持ちを家族に伝えやすくなり、夫婦関係が良くなった」などポジティブな声をいただき、手応えを感じています。

 

―今後の課題と展望を聞かせてください。

茶谷:最大の課題はアプリを「どう知ってもらえるか」です。製薬企業はこれまで医療機関や薬局を通して製品を提供してきたため、製品を直接顧客に届ける経験が少なく、今はノウハウを少しずつ積み上げているところです。今後は、かかりつけの産院や、企業の両立支援施策、自治体での母子手帳交付時など、妊産婦と自然に接点が持てる場での周知を検討しています。本格的なリリースは2026年秋ごろを予定しています。

 

―最後に、読者やアプリのリリースを待っている方にメッセージをお願いします。

茶谷:開発中のアプリは「母親だから我慢するべき」という価値観を変えたいという思いから生まれました。「つらい」と感じる気持ちに蓋をするのではなく、言葉にできるそして、「必要なときは誰かに頼っていい」と、次世代を育てる全ての人たちが心からそう思える社会を目指しています。こころ穏やかに妊娠期、育児期を過ごせるお母さん、お父さんが日本中に増えていくことで、最終的には、少子化の抑止や社会生産性の向上に貢献したいと考えています。
妊産婦とその家族が孤立せず、安心して支え合える社会を、DXの力で実現していきたいです。

茶谷