
変化の先に挑む科学者──変異に先回りする広域コロナワクチンへの挑戦
――まず、八幡さんが脳科学の道を選ばれたきっかけを教えてください。
もともとは心理学や、人の行動そのものに興味がありました。大学の教養課程で心理学や認知科学の講義を受ける中で、錯視のように、実物の画像と脳の認識が異なる現象に強く惹かれたんです。目に映っているものと、脳が『見ている』と感じるものが違う。この不思議さに夢中になりました。「脳はどのように物事を認知するのか」を理解したいと思うようになり、心理学系の道と迷ったのですが、脳の活動や薬の働きを科学的に学びたいと考え、薬学部を選びました。精神系の疾患にはまだ治療法が十分でないものが多く、そこに貢献したいという思いもありました。
――脳科学で有名な池谷裕二先生(東京大学大学院薬学系研究科)のラボご出身ですが、どのような研究をされていたのですか?
動物の行動観察と神経活動の解析に熱中していました。面白い研究でして、マウスにとって本来なら嫌な刺激――たとえば空気の噴射――であっても、何もない空間で退屈させると、自ら空気噴射を求めにいくんです。ヒトもマウスも生活には適度な刺激が必要なのだな、とますます興味が深まりました。
――2022年に塩野義製薬へ入社されてから、最初に取り組まれたのはどんな業務でしたか?
入社後、まず配属されたのは開発中だった抗うつ薬候補のチームでした。そこで私が任されたのは、この薬が脳にどう作用しているのか、そのメカニズムを解明するというテーマです。
抗うつ薬の分野には、「効くことはわかっているけれど、なぜ効くのかが十分に解明されていない」という薬が少なくありません。メカニズムがわからなければ、次の新薬を設計するための手がかりも得られない。私は、ここに脳波という切り口で迫れないかと考えました。
――脳波で、薬の効き方がわかるのですか。
脳波というのは、脳の中の神経細胞が活動するときに生じるリズムのようなものです。私が着目したのは「シータ波」と呼ばれる、1秒間に6〜12回の周期で現れるリズムでした。
先行研究を調べていくと、うつ状態の脳ではこのシータ波が弱まっているという報告が見つかりました。であれば、薬を投与した前後でシータ波がどう変化するかを測定すれば、薬が脳のどこに、どう作用しているかが見えてくるのではないか。そう仮説を立てて、測定に臨みました。
――実際に測定してみて、何がわかったのでしょうか。
薬を投与したマウスの脳波を測定したところ、感情を司る脳の部位である扁桃体で、シータ波が増強されていることが確認できました。さらに、扁桃体と連動している前頭葉でもシータ波が活性化して、脳内のリズムが正常な状態に近づいていたのです。
加えて、従来の抗うつ薬では見られなかった作用経路が関わっていることも示唆されました。つまり、この薬はこれまで知られていたのとは違うルートで脳に働きかけている可能性がある。既存薬とは異なるメカニズムの一端を、脳波という手法で捉えることができたわけです。
得られた知見を論文にまとめ、国際学会でも報告しました。入社して間もない時期にこうした成果を形にできたのは、大きな自信になりましたね。
――動き回るマウスの脳波を正しく計測するのは難しそうです。
脳波は微弱な電気信号です。想像通り、測定は非常にデリケートで、最初は周囲のPCから発生するノイズだらけのデータしか取れませんでした。そこで、物理的にノイズを遮断する「シールドルーム」を先輩と手作りしたり、余計な電気ノイズを遮断するために配線を一つずつ見直したりと、実験環境の構築から始めました。
――AIや実験の自動化が話題になる時代なのに、脳波測定はかなりアナログな側面を持つのですね。
そうですね。でも、この地道さが重要なのです。最近は機械学習で動物の行動解析も行っていますが、生データを読み解くスキルを手放してはいけません。例えば、先月と今月でデータのばらつきが違うと気づいたとき、解析ソフトの結果だけを見ても原因が分かりません。実際にマウスの動きや脳波の波形を自分の目で見て、「何が変わったのか」を突き止める。その積み重ねが、実験の信頼性を高めます。
――環境構築から実験デザインまで手がけたのですね。
「感情に関わる扁桃体と、思考を司る前頭葉、その両方の脳波を記録したい」と提案したのは入社してすぐのことでした。マウスを用いた実験だからこそ、ヒトでは直接測れない脳の深部のデータを取ることができるんです。 新人がいきなりそんなことを言い出して大丈夫かなと思ったんですが、チームや上司も「いいね、やってみよう」と背中を押してくれました。塩野義製薬には、年齢に関係なくサイエンスの議論ができる風土があるんです。自分の専門性やアイデアを信じて任せてもらえる環境は、研究者として非常にやりがいを感じます。
――脳波を薬の効果測定として使用した例を初めて聞きました。
薬の効き方を評価するには、適切な指標が必要です。たとえば感染症なら血液検査の数値で「薬が効いているかどうか」を判断できます。ただ、脳の領域ではそうした指標がまだ十分に確立されていません。「薬が脳のどこに作用しているか」を数値で示せたら、創薬の精度は大きく上がる。先ほどのシータ波の研究はまさにその指標――「脳波バイオマーカー」の候補を見つけた、ということでもあるんです。
――現在は、専門分野である電気生理学の技術を応用して、新しい領域にも挑戦されているそうですね。
はい、現在は認知症や睡眠時無呼吸症候群の研究にも着手しています。 睡眠時無呼吸症候群は、一般的に気道の物理的な閉塞が原因とされていますが、私たちは脳の中枢神経系によるアプローチ、例えば、睡眠中の喉の筋肉の制御や、睡眠の深さと脳の関与も探索しています。
――うつ病、認知症、睡眠時無呼吸症候群と、研究テーマの変化にはどのように向き合われますか?
テーマが変わっても、「脳波を読み解く」という自分のスキルが活用できる手法を考えるようにしています。そして困ったら上司や先輩に早めに相談します。実りある相談のために、相手が判断に必要なデータを共有しておくことや、相談相手から引き出したいアクションを決めておくのも大切です。とはいえ、「話を聞くのが上司の仕事」と言ってもらえる環境にはとても助けられています。
――研究以外の時間はどのように過ごされていますか。
学生時代に始めたフェンシングを続けています。相手との距離感や動きを読む力って、実験の観察眼にも通じるところがあるんですよ。大阪の北摂地域に住んでいて、通勤ラッシュが東京に比べて緩やかなのは精神的にとても楽です。だから帰宅後に、自己投資支援制度*を使って英会話やビジネススキルを学ぶ余裕があるのかもしれません。
*自己投資支援制度:年間30万円までを自己研鑽(けんさん)に使える制度、自身のキャリア実現のためであれば、業務と関連のない学会参加などにも利用可能。
――未来のお話を少し。八幡さんは「脳波」でどのような創薬を目指しているのでしょうか?
私が目指しているのは、トランスレーショナルリサーチーーつまり、マウスなどの研究で得られた成果をヒトの治療にどうつなげるか、という橋渡しの研究です。治験には多額のコストと時間がかかります。マウスの脳波データから、ヒトでの効果をある程度予測できるようになれば、治験の効率は大きく上がるはずです。
たとえば先ほどのシータ波の研究では、扁桃体と前頭葉の両方でシータ波の変化を確認しました。扁桃体は脳の深い場所にあるので、ヒトでは直接測るのが難しい。でも前頭葉の脳波はヒトでも表面から測定できます。マウスの段階で両者の関連性を証明しておけば、ヒトでは前頭葉の脳波だけで薬の作用を推測できる可能性がある。電気生理学の専門家として、その精度を高めていきたいと考えています。
――最後に、研究職を目指す学生へのメッセージをお願いします。
研究職を希望する方の就職活動では、専門性はとても重要です。一方で、入社後は専門性をあまり狭くとらえすぎず、持っているスキルをどのように活かせるかを考えてみてください。自分のコアとなる技術を持つ人にとって、研究テーマの変更は、世界が広がるきっかけにもなります。